人とシステム

季刊誌
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No.21 | トピックス
遊びの効用(1)「荷馬車と遊び」

略歴

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酒井 高男
大正10年 長野県伊那市生まれ 昭和19年 東北大工学部航空学科卒業 現在 東北大教授、山形大教授、宮城職業訓練短期大学校校長、福島県ハイテクプラザ所長を経て、東北大名誉教授。日本機械学会名誉員、精密工学会名誉会員。
専門 機械のからくりおよび運動力学、特に歯車歯形理論。
著書 河北新報(昭和59年)に連載した「創る・動くおもちゃ」(講談社)、「機構学大要」(養賢堂)、「力学のおはなし」(日本規格協会)など多数。

「遊びの効用」をテーマに4回シリーズで酒井先生に執筆いただきます。


波乱万丈の20世紀を送り、様々な期待をもって迎えた新世紀であるが、それも忽ちのうちに3ヶ月を経過した。時の流れはまことに速い。

20世紀は科学・技術の世紀といわれるが、この100年間における科学・技術の発展の速度にも驚く。

例えば飛行機が初めて地を離れたのが1903年だというのに、それから42年後には、圧倒的な彼我航空戦力の差のもと、祖国日本は完膚なき敗北の日を迎えた。常勝国の筈の日本の敗北である。

そのショックは、平和天国の中で半世紀も暮すと、想像するさえ困難であろう。全力を挙げて戦った結果の完敗である。将来に対する希望よりも、今日のこの一日をどう食いつなぐかの方が緊急な課題であった。

連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の命令によって、航空に関する工場は勿論、その基礎研究に至るまで禁止された。戦時中の花形産業であった航空機会社の技師長クラスの人でも、忽ち職を失うことになった。

それでも田舎に郷里をもつ人は幸いである。そのような技師が都会生活に見切りをつけて田舎に帰り、荷馬車を設計して作ったという。ところが出来上った馬車を引く馬がとかく疲れて困ったと聞いた。軸受の精度がよすぎたためである。

石ころだらけの悪路では、車輪はガタガタと、右に揺れ左に揺れて、石ころを避けていく必要があり、田舎の馬車には航空機のもつ精度はむしろマイナスだったというのである。車輪と車軸の間のすき間を、クリヤランスまたは遊びという。要するに空間的なゆとりである。このようなゆとりがあるから、車輪は車軸に対して、あちらこちらに揺れることができて、石ころ道の悪路を超えて行けるというわけだ。

あちらこちらに揺れるので、別名"遊び"というのかも知れない。この遊びは、軸受ばかりでなく歯車などでも大切である。歯車の場合には背隙(はいげき)あるいはバックラッシという。こういう遊びのない歯車は危険である。回転できないか、壊れてしまうかどちらかだ。

挿絵

相対運動の必要な機械部品には必ずといってよいほどに、適当な遊びが必要である。この遊びがあればこそ、外部の環境にあわせて自分を処することができる。機械ばかりでなく人間にとっても遊びは必要である。

遊びを生み出すための余裕、それが空間的であっても時間的であっても、それはあらゆる場合に必要である。ピンチに見舞われた投手が、それでもなお気持の上に余裕を持つとき、ピンチを切り抜ける才覚も働く。

困難に際会したとき、それとの格闘に夢中になるなといわれても無理なことはわかっている。しかしそれでも何とかして、気持の上での余裕は持ちたい。その余裕の中で頭をフル回転させて、目下の緊急事態からの脱出を図るのだ。私たちの学生時代は、全く戦時色に覆われていた。

時間表の中でも重きをなしたのが軍事教練で、そこでの教えによれば、作戦の選択に迷った時には、何も考えずに真っ直ぐに突き進め、とのことであった。そしてそれを実行した結果が祖国の完全なる敗北である。

限られたわずかの余裕であってもよい、国民の一人一人が思い及ぶ限りのあらゆる知恵を出し合って、その中から最高の選択をなすべきであったと思う。しかし当時、国民の誰もが何か意見を持つことは悪であり、全国民が一丸となって為政者の号令に従うべきものとされていた。そこには名案を生み出す余裕など全く無かった。

無謀な戦いに敗れた結果、国民は茫然自失したが、それでも代りにえた自由の有難さは満喫できた。まず灯火管制用の暗幕からの開放である。次に自分の意志で職業をえらび、それによって祖国の復興に尽力する自由を得たからである。

こうして戦後の10年を過ごし、昭和30年代に入ると祖国の前途に希望が見えて来た。30年代の後半から始まった所得倍増計画、つづいての高度経済成長期、この間私たちは、各自に課せられた仕事に対して最大限の努力を傾注した。

その頃私は大学で機構学を教えていた。機構学は古い学問である。どの教科書を開いても、そこにはリンク、カム、歯車など、機械を構成する要素が章別に記述されているのがふつうである。これら要素があってはじめて機械が成り立つからである。

また経済効果の点からも、各要素をモジュール化し、QCをフルに活用するのが有利である。しかし部品の精度を上げさえすれば、それで機械がよくなるとは限らない。大切なのは、むしろ設計であり総合である。この意味で、機構学には要素よりもっと大切なテーマがある。

機構学では、与えられた目的に対し、手持ちの要素をいかに有効に組合わせて、新しい価値を創造するかということが、一層重要なテーマなのだと私は考える。しかし一方研究の面では、一人の人間の担当できる守備範囲は限られる。

私は師の後を継ぎ、要素の一つ歯車を専攻した。専門は狭くなるがその代り深くなる。さてくり返し語られる高度経済成長のためには、一人一人の人間が、自分に課せられた仕事に対して最大限の努力を掃う必要があった。それは組織の中の部品としての役割に徹することである。

しかし人は誰でも、単なる専門的職業人として部品の地位に甘んずることはできまい。必ず一人の人間として、その全存在が評価され、受容されることを求めている。

よろず分業化のすすむ世界にあって、一人の人間が自ら企画者であり、設計者であり、製作者であり、全体に対する責任者であるというあり方は、大変難しくなってきた。そのような中で、私の発見した最高の道楽が手作りによる創作玩具である。

そもそもは、講義のために作った教材が、いざ本番のとき作者の意に反した動きをして浴びた爆笑をバネにして始められた玩具作りであるが、よろず分業化の世界で初めて味わった総括者としての喜びのために長続きしているらしい。

おもちゃであるから金がかからない。必要なのはむしろ知恵である。世界にたった一つしかない玩具を夢に見て、苦労しながらそれを物にしていく過程には、全く研究者の喜びが満ちている。

とまれ分業化が避けられぬとすればなおのこと、全体の中での自分の役割を明瞭に自覚することが必要で、それさえできれば、いたずらに自分が組織の中の単なる部品に過ぎぬとの自嘲めいた嘆きから解放される。それにしてもこのような達観をえるためには、どうしても心の中の"遊び"が必要である。