人とシステム

季刊誌
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No.24 | トピックス
遊びの効用(4)「聖なる余白」
東北大学名誉教授
工学博士 酒井 高男

「遊びの効用」をテーマに4回シリーズで酒井先生に執筆いただいてきました最終回です。


聖なる余白という言葉を、私は深津文雄という牧師さんの書物から知った。

聖というのは他から区別されているとの意味である。余白というのは、書物などで何も印刷されていない空白の部分である。他の何物にも侵されない、自分にとってかけがえのない大切な自由の時間であるというように、私は受け止めた。

この大切な聖なる余白を、私たちはどのように扱っているのだろうか。せっかくの余白を、ただ意味もなく無駄な言葉や行動で、空しく汚しているのではあるまいか。

さて四十年に及ぶ長い教師生活の中で、私の受けた最も貴重な教訓は、東北大学で熱力学を教えておられた故抜山四郎教授の言葉である。それは日本が高度経済成長期にさしかかった時で、新制大学になってからでも十年近くになっていた。旧制にくらべ新制大学の卒業までの修業年限は、実質的に一年減ったというのに、工業の発展とともに教えたいことがいっぱい増えて、先生方はみな苦労していた。修業年限を五年にすべきだという意見も出た。

その時抜山先生は一喝された。「そんな貧しい発想でどうする。時代が進めば工業も進む。そうなったら更に修業年限をふやそうとでもいうのか。全くナンセンスだ。大体、大学教授の資格を何と心得る。それは何を教えるかではない。何を教えてはいけないかを知るにあるのだ。」

この言葉は晴天の霹靂の如く私の鼓膜を貫いた。私たちは得意な事柄があると、つい多くを語り過ぎる傾向がある。それではいけない。語りたい言葉の中から、何をカットすべきかを知ってこそ、初めて大学教師たりうるのだ。と、抜山先生の言葉を私はそのように受け止めた。

挿絵

そしてそれは、深津先生の言葉「聖なる余白」と直結したのであった。

余白を文字通り解釈して、余白の多い書物のことを考えた。その代表は詩集であり歌集である。これらの書物は、字数の割合に値段が高い。私たちは余白に対してもお金を払っていることになる。

詩集や歌集は、読者に対して余白を提供することにより、読者がその胸中において存分に想像の翼をのばし、詩情を味わう機会を与えてくれるのだ。読者に与えられたこの余白が何よりも尊いために、詩集や歌集の値段が高いのだと気づく。

そういえばつまらない書物ほど、文字がいっぱい書いてあるような気がする。どのページを開いても、全体が黒ずんで見える程のものもある。これではとても読む気にはなれない。

教室ではどうであろうか。教師が一方的にまくしたてて、学生や生徒の聖域に踏みこんで邪魔をし、彼らが自分の力で納得いくまで考える機会を奪っていることはないだろうか。

受ける側での準備ができ、まさに発芽しかかったとき、教師の側で先きに手を出してしまっては何にもならない。教師が助けすぎると、学生の成長はむしろ停滞する。抜山先生はこのことを指摘されたに違いない。

深津先生は、聖なる余白という言葉を通して、人間の生き方に関するもっと大切な問題に触れておられる。まことに余白は有難く貴重なものである。

さて小学校では「よく遊びよく学べ」と教えられた。中学生になったら、「遊んでばかりいないで、家の仕事を手伝いなさい」と叱られた。

大人になって後、何とかして先進国並みのレベルを得たいと頑張ったら、今度は「エコノミックアニマル」といって軽蔑された。最近では燃えつき症候群という言葉も聞く。

やはり「よく遊びよく学べ」という原点に戻るべきであろう。

それにしても、遊びとはどういうことか。よその国ではどう考えているのか知りたくなった。そこで和英辞書に当ってみた。

遊びに対応する日本語でさえいっぱいあるのに驚いた。①遊戯②競技③気晴らし④慰み⑤行楽⑥とばく⑦道楽⑧すき間などが並んでいる。それに対する英訳として、①play ②game ③recreation ④amusement ⑤holiday-making ⑥gambling ⑦dissipation などと並び、⑧のすき間は①と同じ play であった。

日本語でも、すき間のことを遊びといっている。どうもすき間は遊びと関係があるらしい。前に本講の(1)で、田舎の石ころ道では、荷馬車にとって車軸の遊びこそが、精度に勝って重要であると書いた。

次にとばくや道楽はひとまずおいて、身近な単語 play に着目してみよう。今度は逆に英和辞書で play をひいてみた。

挿絵

playについても、その意味がいっぱいあるのに驚いた。文例の中に、All work and no play makes Jack a dull boy. というのがあった。これなどは、「よく遊びよく学べ」と同じである。その他いろいろな文例の中に、full play of the mind とか to give full play to one's imagination というのがあって目にとまった。

無理に訳せば、「思いを十分遊ばせる」とか「想像の翼を思いっきり広げる」とでもいうことであろう。私はこれを見て心の底からうれしくなった。

これこそ私が遊びという言葉に対して抱いていたイメージにぴったりだからである。

心に浮ぶそのままに、自由にそして十分に思いを遊ばせること、これこそ人類が汗水たらして追求して来た最高の境地ではないのか。

私たちが額に汗して働くのは何のためか。金を沢山もうけるためか。飯をたらふく食うためか。それとも金殿玉楼に住むためか。そうではあるまい。これらすべてが満されたとしても、なお残るであろう不満足感は十分に想像できる。

四つ足状態で地をさまよっていた人間は、やがて前側の二本足を地面から解放して自由にし、これに手としての役割を与えることに成功した。手による物づくりが、他の動物を引きはなす因にもなる。

それだけではない。立ち上ることによって、遠い地平を見ることが出来るようになった。肉の目をもって遠くを眺めるとき、心の目はまだ見ぬ世界に思いを馳せていることでもあろう。

こうして人類は、文明文化の長い歴史を歩いて来たのだ。ここでの主役は、何といっても、生活の中でのゆとり、すき間、すなわち遊びである。

というわけで、遊びこそが、私たちの文明文化推進の原動力であるということになる。