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No.22 社長インタビュー

ある発明家の生き方 ―トーマス・エジソン―

略歴

人物写真
コ一ダ・アンドロ一ラ
国際特許法律事務所
へンリー幸田(H.Henry Koda)様
[写真 左]

学習院大学理学部化学科、明治大学法学部卒。ベッパーダイン大学法学部特別研究科修了。米国弁護士。元日本弁理士。1972-1977年スペンスリー法律事務所勤務。
米国特許法逐条解説、日米特許紛争スーパーマニュアル、米国特許侵害論、アメリカ特許事件ファイル、ITC解説、スティング・パワー(発明協会)、知的所有権で日本が勝つ日(徳間書店)、国際技術戦略(日刊工業)等、著書論文多数。

コーダ・アンドローラ国際特許法律事務所は、ロサンゼルス市センチュリー・シティーにおいて、米国弁護士へンリー幸田とビル・アンドローラをパートナーとして、1977年事務所開設。
日米特許事件を中心に活動する日系唯一の法律事務所である。
トーマス・エジソンによる発明品の世界的コレクションで知られている。

第一話 成長は好奇心から始まる

■ 1足す1は、本当に2だろうか?

1847年2月11日の寒い朝、オハイオ州のミランと呼ばれる小さな町にある小さな家に頭の大きな男の子が生まれた。アルと呼ばれた男の子は、少々いたずら好きであることを除けば、当たり前の家庭で当たり前に成長して行った。
ミランはエリー湖に近い小さな田舎町である。もっとも南北戦争以前のアメリカは、国全体が大きな田舎だったから、当時のアメリカ人は田舎育ちが当たり前であった。
アルが小学校に入る直前のこと、彼はしょう紅熱にかかり、入学が少々遅れ、満8才で入学した。だが、こんなことは当時の未成熟な学校制度では珍しいことではない。アルの学校では、先生はたった二人。エンゲル牧師と奥さんである。
いたずら少年アルは、真面目なエンゲル牧師と初めから相性が悪かった。好奇心から遠慮なく質問を繰り返すアルバは、エンゲル牧師にとって授業の邪魔者であった。こんなことがあった。
「1足す1は、2だよ。みんな分かったね」
エンゲル牧師は、自信に溢れた顔で生徒達を眺め回した。
「イエス・サー」生徒達は、かわいい声で答える。ところが、「何故ですか」と馬鹿な質問をする少年が一人いる。アルである。
「何故って、1足す1は、2に決まってるじゃないか。鉛筆1本と鉛筆1本を並べてごらん。2本あるだろ」
エンゲル牧師は、うんざりした顔で、それでも我慢しながら説明する。ところが、アルは納得しない。
「でも、ここにコップが一つあって、もう一つコップがあって、その中の水をもう一つ別のコップに一緒に入れたら、一つになるじゃないですか。1足す1は、1かもしれない」
「うるさい、ばか者。昔から、1足す1は、2に決まってるんだ」
好奇心の強いアルは、不思議で仕方がない。
「でも、1枚のお皿を落っことしたら、100個位のかけらになってしまった。そのかけらを100個、糊でくっつけたら、1足す1足す・・・100回足しても、1枚のお皿になるじゃないの。何故、1足す1は、2なんですか」
「お前みたいな馬鹿者は見たことがない。お前の頭は空っぽか」
人は好いが気の短いエンゲル牧師はついに爆発した。分からないことを聞いただけなのに怒鳴られたアルの心は傷ついて、泣きながら家に帰った。こんな毎日が続いた結果、アルはわずか3ケ月にして学校からはみ出した。登校拒否である。
学校が嫌いなアルに対し、元教師の母親は自らアルの勉強の相手になった。母親も好奇心が強い。二人は百科事典を片手に質問をぶつけ合った。なかなか答えが見つからないこともあるが、好奇心の強い二人で考え、議論を交わすことは楽しかった。
母親との対話を通じてアルの好奇心は磨きがかかり、自分の頭で考える習慣が身についた。

■ チャンスを逃すな

12才になったアルは、鉄道でアルバイトを見つけた。りんごやピーナッツ、そして新聞を車内で売る仕事である。アルは仕事を楽しんだ。楽しいからあれこれ新商品を仕入れ、売上を増やしていった。
15才に成長したアルは、両親を助けるために、もっと利益を上げる方法を考え始めた。彼は名案に気がついた。投資である。チャンスは目の前にあった。南北戦争が激化し、地元の若い兵士達が大きな戦闘に巻き込まれた。ラジオやテレビ、電話もない時代、このニュースを伝える唯一の手段は新聞であった。
アルは、デトロイトの新聞社から、このニュースを伝える新聞1000部を仕入れる交渉にかかった。一部3セント、全部で30ドルになる。もちろん、そんな大金はない。15才の少年が、新聞社に対し借金を申し入れた。信用取引き(クレジット)である。新聞社の営業部員は驚いた。だがアルのプレゼンテーションは、なかなか見事であった。
デトロイト発ポート・ヒューロン行きの汽車では、通常新聞は30部しか売れない。だがこの日は、1000部を汽車に積み込む。そして各駅に対し、電報を送り、戦闘・戦死者情報を満載した新聞が到着することを事前に地元に通知する。息子達や友人達の生死を心配する人達の間で、新聞は飛ぶように売れるはずだ。
アルにとっては大きな賭けであった。新聞社にとっても同じである。心配は不要であった。各駅は、新聞を待つ人達でいっぱいであった。アルの企画は大当たりであった。駅ごとに値段はどんどん高騰し、定価5セントの新聞が25セントであっと言う間に売りきれた。15才のアルは、この日、何と100ドルを超える大金(現在の約1万ドル)を手に入れた。
この成功で味をしめたアルは、儲けた金を元手に新聞の発行を企画した。ローカル・ニュースを載せた新聞を発行すれば、退屈した乗客が喜んで買ってくれるに違いない。アルは、何と15才にして新聞発行人となった。
アルが自分で記事を書き、自分で印刷したウィークリー・ヘラルド紙は順調に発行部数を伸ばした。大人顔負けの収入である。ところがある企業を批判した記事をきっかけに、アルは手荒い仕返しを受け、新聞はあっさり廃刊に追い込まれた。新聞ビジネスの成功と失敗は、強烈な教訓となって彼の心に刻み込まれた。
このときアルは、チャンスは逃してはならない、だが他人の批判は無用であることを身をもって体験した。

■ 変化に対応できる生物が生き残る

電気を利用した電報という新しい通信手段は、それまでの新聞や手紙による通信手段とは明らかに異なる。電報のお陰で新聞販売での大成功を体験したアルは、その効果に驚かされた。彼は電報技術の習得に熱中した。
現在の少年・少女達がコンピュータ・ゲームに夢中になるのと大差あるまい。だが電報を中心に、将来のビジネス・モデルを考え始めていたところは、普通の子供達と少々異なる。
電報の技術を身につけたアルは、次世代の通信手段の開発を夢に見た。電報に変る新しい通信手段を開発できれば、大きなビジネス・システムが可能となる。だが、その夢は1876年、アレクサンダー・グラハム・ベルの電話によって先を越された。ベルに先を越されたことによって、アルの好奇心は逆に火がついた。
電報・電話をきっかけに、音の世界に魅了されたアルは、1877年、蓄音機の発明に成功する。音の次は光である。ローソクとランプの乏しい光に頼る生活は何とも不便である。もっと明るい照明器具は、出来ないものか。1879年、アルは、1万回を超える失敗を重ねた末、京都岩清水八幡宮から入手した竹の繊維を用いることによって、ついに白熱電球の発明に成功する。そして、音と光を結びつけることにより出来あがったのが映写機である。1889年のことであった。
アルの好奇心には終わりがない。電池、録音機、扇風機、謄写版、トースタ、ミシン、ラジオ・・・彼はその後も次々に素晴らしい発明を生み出した。1931年、84才の生涯を終えるまで成長し続けたアルバは何と、1093件の特許を生み出した。そのエネルギーは驚異的である。
彼の持つ無限の好奇心とエネルギーはどこから生まれたのだろうか。
アルが少年時代の1857年、生物学者チャールス・ダーウィンは、種の起源を発表した。ダーウィンは説いた。
「この世で最も長く生き残る生物は何だろうか。最も頭の良い生き物か、あるいは最も強い生き物か。いや違う。それは変化に最も対応できる生き物だ」
成長は変化の一つの態様である。少年時代に感銘を受けたダーウィンの哲学は、アルの一生を支える信念となった。だからアルは、新しい発明を生み出し続けた。
少年アルは成長した後、トーマス・アルバ・エジソンと呼ばれるようになった。

第二話 ハンディキャップは、特長である

■ 学歴コンプレックスについて

史上最高の発明家と呼ばれたトーマス・エジソンは、しばしば同じ質問を繰り返された。
「あなたは一体どうして、史上最高の発明家になれたのですか?」
エジソンの答えは決まっていた。
「それは私が学校に行かなかったからです」
聞いた者は、きょとんとする。私もこの問答を初めて聞いたときには、首を捻った。教育があるから成功したという話はよく耳にするが、教育がないのは、失敗の言い訳にするのが普通である。教育がないから成功したというエジソンの台詞は、不可解ではないか。私がトーマス・エジソンという一人の男の生き方に興味を覚えたのは、実はこの謎がきっかけである。何冊もの伝記や書籍を読み漁った末、謎はやっと解けた。
第1話に述べたごとく、エジソンは小学校を3ケ月で飛び出した。以後、正規の教育は受けていない。だから物理や数学の理論は苦手である。もちろん電気の理論にも自信がない。もし彼が一流の教育を受け、電気の理論に自信があったなら、電球の発明は不可能だったろう。何故なら、試す前に理論で否定的な結論を下してしまったろうから。
幸か不幸か、エジソンは理論には自信がない。だから、何でも理屈抜きに試し続けた。京都は岩清水八幡宮の竹を使ったフィラメントの電球を完成するまでに、金属類の他、綿糸、紙、葦、木材・・・あらゆる種類のカーボン素材を試みた。その数1万回を超える実験を繰り返したと言われる。
失敗が1万回を超えたとき、友人がエジソンに尋ねたという。
「1万回も失敗したのに、まだ続けるのか?」
エジソンは不思議そうな顔で言い返した。
「俺は失敗なんかしてないよ。1万回もうまく行かない方法を見つけたんだ」
「教育がないから成功した」と言うエジソンの主張はあまりに短く、その真意は明瞭ではない。彼の真意を確認する方法はない。だが推察することは可能である。私は次のように推察する。
第一に、真の教育は学校と言う外形にとらわれるべきでない。教育の質に対する評価は、一人の人間としての思考能力・判断能力によるべきであり、ブランドとしての学校名で評価するのは本末転倒である。
第二に、学校教育は規則や知識の記憶に偏りがちである。教育において最も重要なのは、与えられた課題をどう解決するか、自分の頭で考える能力を身につけることではないか。
第三に、高等教育を受けた者は、自信過剰になりがちである。真の教育を身につけた者は、他の人間そして自然に対し、謙虚になるものである。
母ナンシーは、小学校を中退した息子を非難することなく、一緒に考える相手になった。幼いエジソンは、母から考えることの楽しさを学んだ。イタズラに向けられていたエジソンの好奇心は、いつの間にか、知的好奇心へと昇華して行った。彼の好奇心は無限の楽しみを生み出した。
だから、どれほど成功しても、彼の好奇心は死ぬまで尽きることがなかった。

■ 難聴について

1877年、30才のとき、エジソンは蓄音機の発明に成功した。この時も、彼は質問攻めにあった。
「あなたは何故蓄音機を発明できたのですか?」
エジソンは答えた。
「私は耳が悪かった。だから、蓄音機を発明できたのです」
この問答も普通ではない。耳が良かったから、蓄音機を発明できたのなら、簡単に納得できる。だが、耳が悪かったから発明できたとは、一体どういう意味なのだろうか。私は再び、エジソンの生き方を調べなおした。
12才で鉄道で働き始めたエジソンは、ある日、動き出した汽車に無理に乗ろうとして、駅員に引き止められた。「危ない!」駅員は、エジソンの身体をつかんで引き止めた。
この時どういう訳か、駅員はエジソンの耳を掴んで引っ張った。エジソンは後日、耳を引っ張れたときに頭の中で何かがプツンと切れる音がしたと述べている。この後次第に、エジソンは聴力を失って行く。成人になったエジソンには、音はほとんど聞えなくなっていた。耳を掴んだ駅員は、エジソンを助けることに必死だったのであろう。だから、エジソンは駅員を恨んでいない。
目の見える者にとって、見えることは当たり前、音の聞える者にとって、聞えることは当たり前と思いがちである。
だが、音の聞えない者にとって音を聞くことは何物にも代え難い。音が聞えなくなったエジソンは、音を聞くことに情熱を傾けた。人と語り合いたい。音楽も聴きたい。
実はエジソンは、少年の頃からピアノの音に格別の興味を持っていた。だが、難聴のエジソンは、ピアノに近づいても音は微かにしか聞えない。ある日、自宅のピアノで演奏してもらっていたエジソンは、ピアノに近づき、抱きつくようにして音を求めた。頭をピアノに押し付けると、音が頭蓋骨の中で微かに響いたようである。
エジソンは、思いきってピアノの蓋に噛み付いた。そのとき、彼の歯が振動でガタガタと震えた。その震えが頭に響き渡った。音である。エジソンは涙を流しながら、ピアノの蓋に噛み付いて、美しい音を聞き続けた。
音は振動だ。
物理では周知の理論である。だがこの体験は、理論を超越して、エジソンの身体に鋭く深く刻み込まれた。
振動は地震計のごとく、記録することが可能である。振動の記録は再生可能である。音が振動ならば、記録できるではないか。それを再生すれば、音が再生できるはずだ。
その時から、エジソンは音の記録と再生に没頭した。様々な実験を試みた。柔らかい錫の板でできた円筒状のレコードを回転させ、鋼鉄の針で音の振動を刻みつける。その傷の跡を同じ針でなぞって行くことによって、音が再生されるのではないか。
世界で最初の録音は、エジソンが自ら歌った「メリーさんの子羊」である。ゼンマイ仕掛けの円筒レコードが動き始め、"May had a little lamb, little lamb, little lamb"と柔らかく温かい音を立てるのを聞いたとき、彼は全身が震えるのを感じたという。
その後、エジソンのレコードは、錫に代えて硬質の蝋を用い、針は鋼鉄に代えてダイアモンド針を用いることによって、見事に商品化された。蝋管を用いた蓄音機による音の再生は、世界中を驚かせた。

■ ハンディキャップは、生かし方で特長になる

世の中に完璧な人間はいないだろう。つまり誰でも程度の差はあるにしても、何らかのハンディキャップを持つことを避けられない。ハンディキャップは、否定的な要素として、コンプレックスの原因となるのが普通である。
トーマス・エジソンは、学歴そして難聴というかなり深刻なハンディキャップを見事に特長に転化した。ハンディキャップを持つことは、その事について、他人よりも深く考えるチャンスを与えられたことになる。エジソンは、自らのハンディキャップから逃避することなく、正面から向き合ってこれらを克服した。
学歴がないことを彼は隠したことがない。学校に行けなかった分、あらゆる書物を読みふけり、他人の話に耳を傾けた。理論に偏ることなく、物事の本質を見ぬき、何でも自分の頭で考え、自分の手で試みた。痛い思いを繰り返し、失敗を重ねたが、誰にもできなかったことを次々に実現していった。
難聴にもかかわらず、いや、難聴であったからこそ、誰も試みなかった音の再生に挑戦し、蓄音機を作り上げた。
ハンディキャップを嘆くのは簡単である。だが考え方によっては、一つの特長となることをエジソンは教えてくれた。
私は偉大な発明家としてのエジソンを心から敬愛する。だが、その最大の理由は、史上最高の発明家であった事実ではなく、ハンディキャップを特長にしてしまった彼の生き方にある。

第三話 何でもやってみよう

■ 風が吹けば桶屋が儲かる

電球を発明したのは、トーマス・エジソンである。電話は、グラハム・ベル、飛行機は、ライト兄弟、カメラは、ジョージ・イーストマンである。誰でもご存知であろう。
それでは、次の5つは、一体誰の発明だろうか。(1)発電機、(2)強化セメント、(3)ベニヤ板、(4)ゴムの絶縁体、(5)高速道路。
私の周囲ですべてを言い当てた人は一人もいない。私も実は知らなかったが、これらはすべてトーマス・エジソンの発明である。エジソンは、電球の発明で知られているから、電気に関係した発電機やゴムの絶縁体までは、推察できるかも知れないが、ベニヤ板やセメント、まして高速道路は電気と一体どんな関係があるのだろうか。
実はこれら5つの発明はすべて電球から始まっているのである。
1879年、白熱電球の発明に成功したエジソンは、ニューヨーク市で派手なデモンストレーションをやって見せた。暗くなったマンハッタンの市街の中心で数百の電球がいっせいに輝いたとき、ニューヨークのみならず、世界中がその明るさに驚いた。
明るくて、強くて、安くて、使いやすい電球が完成した。エジソンは、何とかしてアメリカ中の家庭にこの素晴らしい電球を普及させることを考えた。だが、誰も買わなかった。何故か。理由は簡単である。当時の個人の家庭には電力がなかったから。
エジソンはまず発電機に挑戦した。立派な発電機が完成した。だが、発電機はきわめて高価で普通の人達には手がでない。そこで、彼は安い電力を供給するために、水力発電、つまりダムを考えた。そのためには、普通のセメントでは不足である。そこで、彼は無機化学の研究に乗り出し、強化セメントを作り出した。だが、ダムの工事のためには、数万の労働者を収容する小屋が必要である。そこで、彼は、有機化学を研究してベニヤ板を考案した。
ダムで電力ができても送電するためには、銅線を絶縁する絶縁体が必要になる。その当時、米国には絶縁体としてのゴムは知られていなかった。彼は、植物学を研究し、世界中の素材を試した結果、ブラジルから輸入したゴムを用いて絶縁体を作り出した。
ダムが完成し、送電線が広がり、各家庭に電力が行き渡った結果、電球は、記録的な売行きを見せた。そこで余ったのがセメントである。アメリカ経済は急成長中であった。だが、北米大陸を走る道路は、旺盛な経済活動を支えるには貧弱であった。エジソンは、セメントを活用して高速道路網の構築することを提案した。
お分かりであろう。電球の発明が、発電機、セメント、ベニヤ板、絶縁体、そして高速道路を連鎖的に生み出した。エジソンは、生涯において、1093件という信じがたい数の発明を成し遂げた。彼は、その秘密をナチュラル・エクスパンションと呼んだ。日本でも言うではないか、風が吹けば桶屋が儲かる。

■ 専門に拘束されない

トーマス・エジソンが最も嫌ったのは拘束である。だから、彼はどこの企業からも、政府からも拘束されず、自分の研究所を守り通した。経済的には苦しくとも、自由には代え難い。
彼が特に配慮したのは、技術の専門化による無意識の拘束である。電気、機械、化学・・・エンジニアは専門化しがちである。専門以外の分野には興味を持たず、従って無知である場合が多い。そしてそのことに無頓着なエンジニアが少なくない。
エジソンの教育は、百科事典を教科書として母親との対話から始まった。だから、あらゆる分野に興味を抱いた。電気、機械の技術ばかりではない。生物、化学に留まらず、政治、経済、文学、医学、そして歴史・・・彼の博識ぶりは驚異的である。その博識が、実は彼の業績を支える土台となった。
例を挙げてみよう。1877年からエジソンは白熱電球の実験に没頭した。白金を用いれば高性能の電球が可能である。だが、白金は高価すぎて商品化は不可能である。綿糸、紙、葦・・・あらゆる炭素繊維が試された。だが、フィラメントはすぐに燃え尽きて商品にはなり得ない。彼の研究は完全に行き詰まった。
ヒントは意外なところから訪れた。歴史に興味を持つエジソンは、ギリシャ、ローマに始まるヨーロッパの歴史に通じている。中世ヨーロッパの歴史を紐解けば、ジンギスカン率いる蒙古軍がその一幕に登場する。東洋の神秘的な文化は、その延長線上で小さな島国、日本に行き当たる。
エジソンから見れば地球の果てに花を咲かせたサムライ文化は、興味が尽きない。彼は、野口英世や渋沢栄一等日本人との縁から、サムライの末裔、新渡戸稲造との交流が始まった。新渡戸の著した「武士道」に見る完成された独自の美学は、米国人エジソンを魅了した。
美学だけではない。エジソンは、サムライが用いた竹製の弓矢に目をつけた。日本には、強靭な竹の素材があるに違いない。彼はわざわざ助手を日本に派遣した。明治10年のことである。当時としては大変な負担であったことだろう。助手は、日本中の竹を丹念に調べ上げ、名産地として知られる京都石清水八幡宮の竹に行き着いた。節と節の間の長い竹は、フィラメントの素材としては理想的である。
こうして、エジソンは白熱電球の発明に成功した。もし彼が歴史に興味を持っていなければ、電球の発明は不可能であったろう。
歴史だけではない。もし、無機化学、有機化学、生物、そして経済に興味がなければ、セメント、ゴムの絶縁体、ベニヤ板、そして高速道路の発明は生まれてくることはなかっただろう。
話はそれるが、エジソンと日本との縁は意外と深い。エジソンの下で指導を受けた日本人は少なくない。通信技術を学んだ岩垂邦彦が帰国して始めた事業は現在の日本電気(NEC)、電球技術を学んだ藤岡市助が帰国して始めた事業は現在に東芝に成長した。

■ 何でもやってみよう

トーマス・エジソンの成功の秘密は何だろう。何度考え直してみても私は同じ結論に辿りつく。それは、旺盛な好奇心である。少年の頃から好奇心のために痛い思いをし、楽しい思いをし、エジソンの生涯は、好奇心を中心に回転したように思われる。
それでは、好奇心はエジソン独自の資質だったのだろうか。私にはそうは思えない。小さな子供達を黙って観察してみればすぐ分かる。何でも見たがり、触りたがり、食べたがり、そして知りたがる。好奇心は、食欲や性欲のごとく人間が誰でも持って生まれた本能の一種ではなかろうか。違いは、それを上手に育てるかどうかにあるように思われる。
エジソンの好奇心は、幼いころから母親によって大切に育まれた。小学校で潰されそうになった彼の好奇心は、幸か不幸か、登校拒否となって生き残った。母親が亡くなってからは、自ら知的刺激を与え続けることによって、好奇心を保ち続けたように思われる。
それではエジソンは、どうやって自分自身に知的刺激を与え続けたのであろうか。彼に関するあらゆる書籍を読んだ私は、今自信をもって答えることができる。何でもやってみただけのことである。電気、機械、化学、生物、医学、政治、経済、文学、歴史・・・手当たり次第に試してみればよい。
でも長続きするだろうか。答えは簡単である。エジソンを見習えばよい。楽しみながら、やるのが長続きのこつである。楽しみながらやったから、彼の発明活動は死ぬまで続いた。エジソンの発明は、実は、彼の子供の頃のいたずらの延長なのである。
エジソンの晩年の写真を見ていただきたい。彼の目は84才で死ぬ時まで、いたずらっ子の少年のように輝き続けていた。

(完)