人とシステム

季刊誌
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No.27 | 社長インタビュー
経営者のリーダシップと夢
人物写真
株式会社 樫山商店
CEO
樫山 高士 様

略歴

1943年 長野県佐久市生まれ
1965年 早稲田大学 政治経済学部卒業
1979年 エムケーカシヤマ株式会社 代表取締役
樫山金型工業株式会社 代表取締役
長野吉田工業株式会社 取締役
1986年 株式会社ウインマックス 代表取締役
1988年 株式会社シェミージャパン 代表取締役
1994年 MK.PRIMAインドネシア株式会杜 コミッショナー
1998年 株式会社エフエム佐久平 代表取締役
(第3セクター)
2000年 有限会社いきいきワーク佐久 代表取締役
(佐久商工会議所にて設立)
2002年 株式会社樫山商店 代表取締役(C.E.O)
株式会社創夢部 代表取締役

団体職歴

1989年 佐久平金型プラザ事業協同組合 理事長
1991年 佐久商工会議所 副会頭
佐久市工場協会 会長
1992年 長野県魅力ある製造業づくり懇談会 委員
1993年 信州テクノネット 会長
1996年 佐久市先端情報化研究会 会長
1998年 長野県工業会 副会長
佐久商工会議所 会頭

エムケー樫山グループ

URL:http://www.mkg.co.jp/global/jp/(外部サイトへ移動します)

エムケー樫山グループは、長野県の佐久平に拠点を置き、海外事業も展開されています。自動車ブレーキシューとディスクブレーキパッドの製造・販売の「エムケーカシヤマ株式会社」、ファインプラスチック製造の「長野吉田工業株式会社」、プラスチック成形金型やプレス金型製造の「樫山金型工業株式会社」、インドネシアの「MK PRIMAインドネシア」など13社からなる異業種複合型グループです。

狩猟民族型の経営

人物写真
HZS
社長 福武 映憲

福武 樫山社長は、長野県佐久市の商工会議所 会頭、佐久市先端情報化研究会 会長をされており、自治体と商工会議所の連携で佐久市の情報化を推進され、その成果として、2000年11月に佐久情報センターがオープンしています。

また、佐久平金型プラザ事業協同組合 理事長も務められ、佐久平の"モノづくり"の中心に位置される方ですが、この度中国や海外へモノづくりの拠点が移転する中で、2001年12月に佐久平に大規模工場を新設されました。

エムケー樫山グループとして大変ユニークな経営をなさっている樫山社長に、今日はいろいろなお話をお伺いしたいと思っています。

樫山 エムケー樫山グループは、先代社長 樫山信が「樫山商店」の商号で自動車部品の販売を始めて以来、創業55周年を迎えました。

現在は私と弟の樫山徹とで分担しながらグループを共同運営しております。

平成13年度末に、商法、税制体系の変更に伴って、エムケーカシヤマ(株)をグループの持株会社(株)樫山商店に商号変更し、同時に新エムケーカシヤマ(株)を創立いたしました。

私のやり方は、中小企業としてはやや早めで、ドンキホーテみたいなところがあると思いますが、私は決して今を不況だと思っていません。今は時代の変革の中でかなり高速な曲がり角にいますから、経営者の判断によって、何を選択するのか、どのように構造改革をするのか、新しいビジネスモデルをどのように構築するのか。これは、発見というほどかなりドラスティックなものでなければだめだと思います。新しいビジネスモデルを構築したところから明日が見えてくると思うのです。

従って、従来型で社員の方も経営者の方も一所懸命頑張っているという言葉だけでは、時代に追い越されていく時期ではないかと思っています。

グループ持株会社から100%子会社になったエムケーカシヤマの社員には退職金を全額支払い退職金制度を廃止し、スリムで分かりやすい形にしました。これは、農耕民族の日本人ではなく、狩猟民族の欧米人、いわゆるグローバルスタンダードという企業評価から見て分かりやすいということです。日本の過去の伝統的な雇用関係に一石を投じると言うとカッコいいのですが、社員へは新しい緊張を強いているかもしれません。

しかし、いずれもいくつかの意味・目的を持った変革をしているつもりです。

日本全体、業種、業界の置かれた状況で経営プランは違うと思いますが、我々、中小企業の経営者は、どちらかというと農耕民族型の受身の経営プランが多いかと思います。しかし今は、狩猟民族型のように、自分の方から行動をしかけていく時代になってきていると思います。

今の時代を、景気が良い悪いという捉えかたをすると間違えてしまいますから、どの経営者も新しいビジネスモデルを構築する、構造改革をするつもりが必要だと思います。以前は景気が良い悪いが、利益が多い少ないということだったと思います。でも今は生きるか死ぬかです。どの業種も、生き残る企業の数は、非常に限られるだろうと思います。従って、製造業だけでなく、サービスも技術も、働いている皆さんも同じように、大きな変革の中で自分なりに目標を見つけてクリアしない限り、個人としても法人としても地域としても行政単位としても生き残っていかないだろうと思います。

企業としては、時代の変化の波先を見て、変化の方向というものを自分で作っていかなければならないと思います。もっとも言うほど簡単ではないですが。

私のグループは、幸い異業種複合というコンセプトで進めており、結果として、いつの時代も良い業績の企業もあれば悪い業績の企業もあるので、私個人としてはあまり良い悪いに一喜一憂せずに仕事をエンジョイできていると思います。

量の拡大ではなく、マイサイズの経営規模

一番大きな転換期は、1985年頃で、円高になった時です。このときに、本来は大量生産指向を止めるべきだったと思うのです。当時、欧米がどんなメッセージを日本に求めているのか、日本としての答えを見つけるべく、私は日本の民族が経験していない経験を持った民族としてユダヤを選び、国としては国境線が定まらないイスラエルから学びました。

イスラエルの国、ユダヤの歴史を見るために、イスラエルにあるほぼ全部の研究所・大学等を訪問し、現地の教授から開発関係や世界史などの色々なお話をお伺いしました。それと同時に、彼らの生き方を見ていると、結局、ローマ帝国に統合された後、世界に散っていって、多様な民族に融合していきます。イスラエル人であるということはユダヤ教の信者であるというひとつの基準だけでイスラエルが建国されるのです。しかし、非常に小数民族でかなり変わったアイデンティティーを持っているので、いじめられやすい対象に見られたというのが事実だろうと思います。

一方でユダヤ人は常にアッパーミドルの暮らしをしてきています。その理由は、ボリュームや重さや金額ではなく、ソフトウェアというものを非常に大事にしているからだと思います。時代によって適切なソフトは変わります。昔なら音楽、商業、金貸しであったりするわけですが、今は情報通信、メディア、金融、保険、映画などですね。いわば知的なもの音楽や映画などの領域で、地球の人口の中では1,600万人と言われておりますが、非常に多くの情報発信力を持っているのではないかと思います。

従って1985年の段階で、樫山グループとしては量の拡大ではなく、マイサイズつまり自分の器に合わせた企業規模を維持し、その中身を変えていくことによって、時代に対応する。決して量は追わないと決めたのです。私の経営能力から見ると、グループ全体で年商100億というのが適切な規模です。

今大きな転換期なので、新しいビジネスモデルを提言し新しいビジョンが描けるように、樫山グループの展望を開く、もしくは次世代に渡していくための私の責任ということ、後継者にとって新しい飛躍へのプラットホームを作っていくということをやっています。

樫山グループとしては、ハードとソフトのバランスの取れた企業グループにモデルチェンジしつつあり、モノづくりが基本ですが、ウエイトとしてはソフトなビジネスを拡大していく。しかし、ボリュームとしては、国内外で100億を維持できればいい。その後は、後継者の器によって、それを50億にしようと1000億にしようと、自分の仕事をエンジョイし、社員がハッピーな状況に居てもらえればいいなと思うばかりです。

私の器では100億ですね。

今は何が豊かで、何が幸せかという価値判断の基準がモノやお金や学歴やステータスだったり、全部意味のないことです。時代が変わる中で、豊かさの基準を考え直さなければならない。そこを見据えないと何をしたらいいか分からなくなります。

今は数字を追う会社はつぶれる会社ですね。居心地の良い規模でいればいいのです。要するに農耕民族型の暮らしをしながら狩猟民族のゲームをしましょうということです。

異業種複合の経営

福武 金型や自動車部品、化粧品の容器などの成形品と、異業種のFMコミュニティー放送、カーネーション苗や土壌改良剤の輸入販売なども手がけておられるエムケー樫山グループについてお話いただけますか。

樫山 エムケー樫山グループとして、農業、カーネーションの栽培、土壌を変える養剤の開発販売、プラスチック成形、ペットボトル成形などいろいろなことをやっていますし、情報化ということでFM放送のスタジオが新幹線の佐久平駅の駅舎の中にあります。これも全国で初めてです。

樫山グループ図
(上図をクリックすると拡大図が表示されます)

シェミージャパンは創立14年になります。これは、85年代のイスラエル訪問の頃の成果のひとつです。

当時、大企業はイスラエルには行かなかったので、我々中小企業が行っても日本の通産省に当たるところが結構大事にしてくれました。私もコーディネーターという役割で、イスラエルから当時のハイテク技術を日本に紹介、導入して、3次元レーザの加工機などの合弁会社を作りましたが、その中で今残っているのは、我々が手がけた農業だけです。不思議だなと思いますね。

長野県の佐久は、小諸浅間三景から八ヶ岳までの標高と寒暖、昼間の暑さと夜の冷涼な空気と紫外線量が、日本の中で、花の色を一番きれいな仕上がりにする場所です。イスラエルで開発した新しいカーネーションを日本の試作農場で育てて、その中から農家の方がいいと思うものを種苗登録しします。その苗を増殖して育てるという権利を売るビジネスモデルでした。ところが実際には時間差があって苗が間に合わず、今は逆に花を紹介して苗を輸入するということが主な業務になっています。最初、100万~150万本でしたが、今は400万本ぐらいです。担当者は、55%増という積極的な計画を組んでいますから、楽しみに心配しているという状況です。

私のニュービジネスは、決して規模を求めているわけではありません。社員一人ひとり、家庭の事情や性格・持味が違います。地域に密着した中小企業のトップとしては、社員一人ひとりの性格、生活に合わせた新しい企業を立ち上げてもいいのではと思います。社員一人ひとりの家族がハッピーになる規模で十分であるという創業です。幸いカーネーションも、日本では苗の輸入量ではトップ3ぐらいのポジションにいると思います。

また、土壌改良材もマーケットは限りなく拡大すると思います。現在はインドネシア、タイ、フィリピン、ベトナムからカニやエビの殻、やしの実を輸入して原材料を販売していますが、カニはキトサンが注目されています。今は、シェミージャパン独特の生産、製品に変えていく過程です。自然のものが化学薬品と違う形で見直されていくと思いまして、大学の化学系の先生とアライアンスを組んで開発研究をしているところです。

カーネーションの新しい品種と、土壌改良というジャンルを超えた医薬や化粧品の方向へ付加価値を上げていく可能性を模索しています。これも数人でやっていますが、将来性があり日本にとって大事な仕事だと思っています。規模ではなく、日本にとっての必要性や日本の生き方というものに提言できるビジネスではないかと思っています。ですから、決して売り上げが何億になったなどで喜んでいるわけではなくて、何か日本にとって必要な変化の方向に先行的に提言できるようなものを算盤をはじきながらやっていくということを繰り返しながら楽しんでおり、これが私のマネジメントスタイルのような気がしています。

もうひとつは、先代が創業したこの地域で商工会議所の会頭をしているということは、先代のあの人なら大丈夫だろうというような信頼性と人間性を見えない遺産として承継して今の私があるので、商工会議所においてもそれを壊さないように、改善拡大をして次世代に渡していくということが一番大事だと思っています。

ですから、2つの点でいずれもボリュームを追うのではなくて、ソフトな分野において、先行性があって提言して役にたつようなことを、規模は小さくても重ねていくということが私の役割ですし、仕事の楽しみ方ということになります。

創夢部-夢を創る-

福武 株式会社創夢部もグループ内にありますね。

樫山 子どもに名前を付けるときに、非常に親の思いがこもりますね。親がその子に託す夢、こういうふうになってほしいという思いを込めてつけると思うのです。ですから、子どもだけではなくて、製品でも、工場でも、会社でも、全てのものにその時々の経営者の思いというものを吹き込んでいく必要性があると思います。名前には非常にメッセージ性がありますので、創夢というのも単にゼネラルサービスといういわゆる総務ではなくて、夢を創るということがテーマであり、また夢を創って社員とともに共有し、グループの中に波及する、地域に発信するということまで含めて創夢なのです。

時代に合ったメッセージ性のある、夢を語るという点で名前の中に思いを込める。これがトップとしての特権ですね。

今回、持株会社を作るにあたって、戦後すぐに親父が作った樫山商店という名前に創立55周年を機会に戻しました。今の日本は、戦後の何もない時から立ち上がったと同じような環境に置かれています。そのときの志を今、我々が新たに持ち直さないと、日本という国の将来はないと思います。自分自身を反省する意味も含めて、親達が戦後直ぐに苦労した環境も何もなかった時代があってこそ今の我々の生活があるわけです。我々は今だけ楽しんで、歴史を振り返らない傾向がありますが、それは間違いだと思います。日本全体の歴史を踏まえて、日本人という概念を把握しておく必要性がある。企業としては、やはり創業の原点に戻って確認し次の一歩を踏出し、それが次世代のメッセージに託すものになるということが望ましいわけです。

モノづくりで日本に残る決意

福武 昨年、新工場を完成されましたが、今の時期に、創業以来最大規模の設備投資をされた理由をお伺いできますか。

新工場の写真
佐久平の新工場
工場名の写真

樫山 樫山グループ始まって以来、樫山金型工業は長野吉田工業と合わせて相当多額な投資を行いました。これは、「日本で製造業を継続する」という樫山グループの決意を表明するものであるということがひとつです。モノづくりで日本に残るのだという象徴的なメッセージです。

今の実力と同じ工場ができたのでは、夢がない。器というのは、できたときにはやや身分不相応な、社内の実力以上であっていいのではないか。これから、その器に似合った体質の仕事や社員の集団になるよう我々が、器に負けない企業体質を作っていく社員の集合体になってもらう。結局日本で残るにはミクロン単位だと思いますから、その加工に耐える環境、スペースをやや早めのタイミングで用意する必要がありました。

工場が2カ所に分かれており、ロスもありましので、2工場を統合することで、社員の情報の共有、コミュニケーションの密度向上によって、お客様へのすばやい対応と管理コストの削減も目指しています。

また、製品の品質に万全を期すために、新工場内では、20℃±1℃の温度、湿度をソックダクトで管理しており、床をフラットにし、遮音性まで配慮しています。

モノづくりをやっていく以上、基本は技術で、どのスペースに位置を狙うかでしょうから、金型の新工場も"Space匠"という工場名をつけたのです。
金型という業態に、社員一人ひとりの技能を匠のレベルまで上げないと日本では残り得ないでしょう。データも大事ですが、人がやる部分については技能の承継とともに、匠のレベルにまで上げてほしいというメッセージを込めています。

今回の投資ができたのも単一企業では無理でしたが、グループ内で資産の移動を行い、総合的な与信枠の中で融資を行っていただいています。100億の規模がいいかどうかわかりませんが、グループの異業種複合という点や、創業者からのこの地域におけるブランドイメージが加わって、金融界からかなり過大な信頼をいただいているのではないかと思います。

海外と国際的な連携

福武 海外企業との連携についてはどうでしょうか。

樫山 CAD/CAM、焼き入れ工程まで内製化しましたので、その先に成形から組み立て、仕上げというところで、どの業種も上流、下流にウィングを広げなくてはならない時代だと思いますし、そのウィングというのが決して国内だけではなく、海外とのアライアンスや提携において、上流から下流まで視野広く深く張り出していく時期だと思います。

金型について、我々の企業規模と力と技術力でどういうアライアンスの仕方がいいかは模索中です。やはり我々の企業規模ですと経営資源に限界があり、分割することによるリスクの方が大きいと考える必要性がありますね。

エムケーカシヤマの自動車部品などは当然グローバル展開が必要で、世界でゲームできるプレイヤーになるという目標のためにさまざまな仕掛けをしています。

一方、弟の徹が社長をしております長野吉田工業はニッチ隙間狙いですが、ペットボトルだけではなく、食品や医薬などに対応できる容器や、ハセップ対応の工場にアップグレードさせました。そうでないと、日本で残れないでしょう。

時代の要求を肌で感じてジャッジ

福武 中小の金型専業メーカさんはどこも大変苦しいと嘆かれています。そのような企業の方に何か良いお話はないでしょうか?

樫山 現場は苦しんでいます。冷たい言い方ですが、当然苦しんでいい時期なので、苦しんだ方がいいのです。日本全体が、もう一度ハングリーなところへ戻らないと無理ですね。業種ナンバーワン、地域ナンバーワン、特化した差別化した技術を持っておられる非常に少数の金型企業以外は、皆苦しんでいると思います。

特に今回の場合は変化のスピードが早いということと、山と谷の高さと深さが圧倒的に従来と違います。どの経営者も過去にない経験、過去にない環境にいますから、過去と同じことやって問題が解決するわけがない。今の時代は、デフレという状況も含めて、体験したことのない環境にいることには間違いないので、過去に経験がない時代を越えようとするとき、過去の経験に執着する経営をすること自体が無理なのです。

時代が要求するものを肌で感じてジャッジできなければ、経営者にはそぐわないのです。企業と肩書きに執着している人には、もう時代は終わったよ、と後ろから肩をたたかないといけない時だと思います。

一流企業とのアライアンス

樫山 CAD/CAM、放電加工、マシニングセンターなど、当社がナンバーワンと判断した企業と提携して、少しでも早く情報をいただいて、また同時に一定のリード期間の中で、その設備をもっとも有効に活かすことができる信頼関係を構築する。企業からすると、沢山しかも、高く買ってくれるのが大事なお客様かもしれませんが、現場の人から見るとそうではないですね。

お客様の現場の責任者があの人ならと応援できると言っていただけるような人間関係が大事です。トップの方はどうしても数字で見がちで、何台売れた何シート売れたというようになるかもしれませんが、樫山なら応援してやろうと思っていただけるようなことが、甘さになってはいけませんけれども非常に大事ですね。ですから、ナンバーワンの企業とアライアランスを組み、意識的にお客様ともそういう関係を結んで、関係構築の密度を単に高い安い、仕事の損得だけで決めるのは日本人的ではないと思います。プラスαの人間関係というものをていねいに作っていくということが必要です。ですからデジタルではなく、経営者はどうしてもアナログの要素を心得ないと、力づくでいった場合は力で倒されるということになるでしょうし、お金でいった人はお金で倒れると思います。すべてそういう点では因果関係が非常にはっきりしていますね。ですから社長としてお客様もしくは取引先への言葉使い、売っていただくなり買っていただくなりそのときのこちらの姿勢というのが非常に大事なところです。そうじゃないとただ単に安ければいい、量を買ってくれればいい、こういうことでは、あまり日本人的な、日本型の経営、企業間関係、取引先関係というのは長期的に続きにくいのではないかと思います。特にここ何年か、大きな曲がり角だという認識があったので、より一層有力な企業との連携において、より多く早くご指導いただける環境を作っていくということもこの時代を乗りきる大きな要素だろうと思います。銀行との関係も同じです。

サッカーのような瞬時の判断

樫山 サッカーを観ているとあれが時代だと思いますね。野球じゃないですね。11人で、ピンチがチャンス、チャンスがピンチに瞬時に切り替わっていき、しかも審判が見ている、見ていないでゲームがフェアー、アンフェアーになってしまう。これが今の時代ですね。瞬時の判断でボールが生きたり、死んだり、チャンスになったり、ピンチになったりしているのを観ていると、我々もこのようなゲームを連想して現実に取り込めないとだめだなと思いますね。チャンスもピンチも本当は目の前にあるのです。

そういうルールのゲームを、日本の国もプレーしないといけないにもかかわらず、できていない。スピードというのにもついていっていない。我社自身も正直いって時代に遅れています。社員の技能というものを"Space匠"ということに託したけれども、現実にそういう領域に達成している人はまだまだ少数ですから、つらいわけです。ただ経営者というのは、舞台で踊っている役者ですから、足元が泥沼に取られていても、地域から見たら樫山元気だね、楽しんでいるじゃない、新工場も建ててよくやっているねと、足元のドロドロしたところは見せないのが粋なところですね。

この地域では、コスモス街道が有名で、コスモスは可憐な花ですが、根はとてもたくましく、しぶといのです。このしぶとさが必要ですね。

経営者も表向きスムーズにきれいな踊りをパフォーマンスして示しながら、足元にいろんなものにまとわりつかれ、自分で勝手に泥沼に足を入れて大変なんだけれども、それを表には見せない。意地でも踊って通すのです。

創業55周年を迎え、これからも「佐久平に新たな産業を興し、人を育て、地域の人々とともに郷土の生活と文化の向上を図る」という創業の原点に立ちかえり、創業者である先代が築いてきた見えない遺産、人脈、この地域における「樫山」というブランドが持っている信用度を、弟の徹と共にきちっと維持して、後継者に承継していくことが、私にとって一番大きな課題です。

時代の転換期でもあり、世代交代の時期でもあり、私にとってのより精神性の高い暮らしを設計する最終コーナにさしかかっているところです。

福武 お話をお聞かせいただいて、樫山社長のお人柄、経営哲学についてかなり理解できたように思います。これからも社長の経営哲学のもと、新たなビジネスモデルを構築されることを期待しています。

本日は、大変お忙しい中を、お時間を割いていただきまして、どうもありがとうございました。