人とシステム

季刊誌
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No.54 | 社長インタビュー
仲間とともに ―社員も地域も業界も―
ティエムモールド株式会社 代表取締役 水野 博之 様 ティエムモールド株式会社
代表取締役
水野 博之 様
NDES 代表取締役社長 渡辺 雅治
NDES
代表取締役社長
渡辺 雅治

渡辺 水野社長と弊社とは、GRADEの時代から約20年のお付き合いをさせていただいています。

この中部の地で、金型メーカとして最先端の技術と熟練の技をうまく融合して事業をなさっている水野社長の経営方針や業界についてのお話をお伺いしたいと思います。

ティエムモールドの技術力

水野 ティエムモールド株式会社は、父親が昭和49年に創業した会社で、自動車部品用のランプ系の樹脂金型の設計から製造まで、すべての工程を自社で行っています。

渡辺 会社の運営、人とのつながり、営業力、技術力、いろいろな側面がありますが、どういうところに注力をされていますか。

水野 一つのことしかできない社員というのは当社にはいません。すべての社員が多能工です。中小企業というのは、一つのことしかできなければ追いついていきません。機械もこれしか使えませんでは、仕事が回らなくなります。ですからいろいろなことを必然的に覚えていきます。一人一人が流れ全体をわかっていて何でもこなせる集団です。

金型づくりにおいては、機械による最先端の技術力と、職人とよばれるような熟練の技が必要です。いざというときに応用力を発揮するには、熟練の技が必要になります。最先端の技術力と熟練の技が共存していることも、当社の強みだと思います。

安定した品質をお客様に提供し続けているということも評価をいただいている点だと思います。どんな仕事でもやりますから、声をかけてくださいというスタンスです。

父親からの突然の辞令

渡辺 水野社長は、やはり後を継ごうとこの会社に入られたのでしょうか。

水野 確かに跡取り息子と言われていましたが、まさか自分が金型屋に入社するとは全く考えておりませんでした。学生時代はコンピュータの専門学校に通っていたものですから、卒業後は当然当時の花形職業のSEになるつもりでいました。

ところが、卒業前に父親から「辞令」と書いてある封筒を貰い、中を開けてみると、「水野博之 3月21日から出社を命じる」と書いた便箋がありました。

まさかのこの辞令で、23歳の春にティエムモールド株式会社に入社しました。

そして、父親からは「最初に出社して最後に帰れ」とだけ指示を受け、朝は7:30出社(冬場は、石油ストーブをつける当番)。そして当時は、金型屋といえば24:00を過ぎることもごく当たり前のように毎日続きましたので、1年で12kgも体重が落ちました。

休日も月に1度取れればいいほうで、やっと取れた休日には、CDショップに駆け込み、好きなミュージシャン(アナーキー、MODS、ARB、SION)の新譜を買うのが唯一のストレス発散でした。

【いったい私に何ができるのだろうか?】

今までまったく携わったことのない金型の世界で、いったい私に何ができるのだろうか?と思いながらの毎日でした。

入社当時はHZS(現NDES)のAPOLLOというハードウェアでGRADE/NCを使用していました。コマンドもタブレット版で当時の価格で3,000万円したそうです。しかし、当社にはそれを使用するオペレータがいませんでした。コンピュータを使うなら私が適任だと考え、講習に出してもらうことになり、こっそり「これが動けば3,000万円」とほくそ笑んでいました。

ティエムモールド株式会社 取締役 岡田 和幸 様
ティエムモールド株式会社
取締役
岡田 和幸 様

しかし、最初からうまくいくものではありません。大失敗をしでかしたり、刃物の高さを間違えてワークに刃物をぶち込んでみたり、悲惨な失敗は数多くありました。中でも記憶に残っているのが、面の方向性を間違えて指示し、それをそのまま削ったところ、当然残っているはずの形状がきれいになくなってしまっていたのです。そのときに、手を貸してくれたのが今の岡田です。溶接するために走って帰ってきたところ、工場内はもう静か。誰もいない工場で1人でセットして、溶接の要らない部分を高さを浮かせてNCで削っていたところ、「それじゃ時間が掛かるから、貸せ」とNCを手動に変えて、目で見ながら溶接した。要らないと思われる部分を30分ほどではねてくれました。そのときは横で見ながら、泣いてしまいました。自分の失敗なのに助けてくれる仲間がいると。

【そして、3年が経ち・・・】

「石の上にも3年」と母から言われていたので、3年経ったときに、希望だったプログラムの仕事に戻りたいと、「もうそろそろ解放してほしい」と話しましたが取り合ってもらえず、その後も私の型屋人生は終わらなかった。でもそこで「選んだ道じゃないけど、ひょっとして仕事を楽しんでいる?」もう1人の自分に気がついた。

 10-10=-0.07

 10-10=0.15

数式は成立しないし、毎回同じ数式でもなく、0.01mmや0.03mmなど一般の人が使わないような桁で仕事しているけど、これが好き?ひょっとしなくても、望んでここにいる?

最初は、父親の紙切れが忌まわしくてしょうがなかったのが、少しずつ仕事を覚えていくとともに、仕事が非常に楽しくなっていました。

【GRADE/NCからGRADE/CUBE-NCへ】

そして、シリコングラフィックスのINDIGO R4000導入。R4000導入時は感動しました。そうです。GRADE/NCからGRADE/CUBE-NCへの転換期です。シェーディングしたまま画面が動かせる。これほど画期的に感じたことはありませんでした。これで、パス落ちの見落としも減らせると実感しました。しかし、この頃になるとメーカ様のデータも数値表から、面データへの転換期だったと思います。やはり、転換期は何かと面倒なことが発生しました。まずは、データのコンバート。MTの読み込みのパラメータ、IGESからの転換、やっとデータがさわれると思っても、中には面がなくなってしまっているものもかなりありました。しかし、まったくの無ではないので、とりあえずある曲線とラインで近似して作成したり、二次曲線(放物線、双曲線)のGIPの関数を使用してフォーカス面を作成したりしました。

その時代も終わりに近づいてくると、今度は意匠側の面データは全てあるが(トリムはされていない)、肉厚方向の面が0の時代が来ました。コマンドOFCSには本当にお世話になりました。あのコマンドがなかったら、あ~ぁ、考えるのも恐ろしい。

【社長になる覚悟を】

父親とは、いつもいつも、仕事のことで喧嘩ばかりしていました。俺は「こうしたい」、父親は「それはダメだ」。こんな会話の繰り返しで、家にいても会社にいても喧嘩ばかりしていました。もう、十数年も前の話ですが父親が亡くなったのは、私が28歳の6月のことでした。

そんな喧嘩ばかりの親子でしたが、やはりいなくなると寂しいもので、心の中の自分では気づいていない部分に穴が開いてしまって、自分と父親の存在を無我夢中で比較し、父親のように創業者ならではのカリスマ性を持てないジュニアとしてはどうすればいいのか、しばらくの間は解答が見つけられませんでした(今も見つかっていないけど)。

とりあえずの社長には経理上がりの母が就任しました。しかし、母も病弱で2001年の名古屋集中豪雨の時には脳梗塞で入院中でした。客先から集中豪雨のお見舞いをいただくも、代表者が入院中では動けないので、とりあえず常務と2人で、応援してくださった客先にはお礼にあがりました。しかし、自分の中で「このままにしておいていいの」との疑念を持ち、2001年に社長として後を継ぐ覚悟を決め、母に「俺やるよ」と伝えました。

自分の中では「最善の選択」だと思っていたのですが、一週間後は「何で馬鹿なことを自分から言ったのだろう?」と。

そんなこんなで、経理上がりの母としては、貸し工場の家賃で自社工場を手に入れるという野望があったらしく、借金を息子に押し付け工業団地に進出してしまいました。一つだけ言えるのは、確かにこの場所なら、集中豪雨でも水害の恐れはない。

2001年12月に、春日井市明知工業団地に移ってから、早8年目。何とかジタバタしながらやってきましたが、今回の「金融不安?」「世界同時恐慌?」には、上場企業もバタバタと倒れていく有様。こんな中でも、普通に倒れて、普通に終わってしまうのが嫌で、こんなときだから、「負けたくない」と、「勝てなくてもいいから、絶対に負けたくない」と思い、ゴールデンウィークも出てきて仕事ができたというのは、この不況に勝てたのではないかと、金型屋としての仕事を日々頑張っているところです。

大事なのは仲間という思い

水野 実は、社長になって一週間でやめたいと思いました。母親に、やめたいという話をしたら、何を言っているのかとえらく叱られ、やると言ったんだからやらないといけないなと。何をしたらいいのかもわからないし、現場にもだんだん入れさせてもらえなくなって。

渡辺 その後どういうアプローチをされたのですか。

水野 一緒の仲間だよねというやり方です。みんなで話ができる規模です。まだ道半ばですが、いかにみんなが一緒にやろうと思ってくれるか、そこまで持っていかないと組織、利益を求める集団としてはまずいですからね。

渡辺 30名というのは、その人の性格やスキルなど把握できる人数ですね。

水野 そうですね。これ以上の規模になると、「悪いけど今晩一緒に徹夜してくれる?」なんてとても言えないですね。中小の一番強いところは、すぐに動けて、緊急対応もできるというところです。急な依頼に、この社員には機械を動かしてもらって、この社員には仕上げを手伝ってもらって、この2人を押さえておけば何とかなるという段取りができます。これから自分がトラックで取ってくるから、11時にスタンバってもらって、一気にやれば、次の日の朝6時までに納品できるなという判断ができます。それはこの規模でないとできないですからね。

渡辺 水野社長の頭の中に、生産管理や工程管理があって、お分かりになっているから言えるんでしょうね。

水野 仕事は仲間と一緒にやらないと一人じゃできませんからね。

渡辺 それが30人の社員に伝わったのでしょうね。

水野 伝わったからゴールデンウィークはみんな出てきてくれました。このような状況の中、ゴールデンウィーク返上で仕事をした会社もそうそうないと思います。

社内の風景 社内の風景
社内の風景 社内の風景

この不況を救ってくれた仕事

渡辺 去年から自動車関係は落ちこんでいて、金型メーカさんは本当に大変だと思いますが、ランプ系の仕事は需要があったのでしょうか。

水野 今年の3月までは普通に仕事がありました。量産のところは在庫調整で昨年から大変だったと思いますが、当社は取引先が開発部門ですから、開発部隊は先行してやらないと次に売り出す物がないという状況に陥りますので、そこはセーフでした。ただ、4月、5月はまったく仕事がありませんでした。まったく仕事がない中でどうしたらいいものかと奔走していたときに、中国で作ったパチンコ台の金型の修理の仕事を受注したのです。多少でも売上げを持っていればお金が入ってくるのですが、それもないとなれば、中小企業雇用安定化助成金に頼って給料と固定費を払わなければならず、みんなのモチベーションも落としてしまいますし、もたないですね。仮に、売上げがまったくゼロであれば助成金に頼っても4ヶ月しか持ちません。そういうことはできないなといろいろ考えていたときにこの仕事が入ってきたのです。

渡辺 今回、4月5月の穴を埋める仕事があったというのは、今までの活動の結果でしょうか。

水野 成形をしていると、ピンが折れたりして金型が壊れます。でも、成形屋さんではその金型を修理できません。金型をばらせない以上、送り返す必要がありますが、送り返す先が遠いと運賃がかさみ、メーカの方に迷惑をかけてしまいます。それで、近くに修理するところを持って、メーカさんに迷惑をかけずにやりたいと、金型の修理をしている知り合いのところに仕事が来たのです。

この金型の修理をしているところは、父親の時代に一緒に金型をやっていて、独立をした人で、NC化が進みだしたころに、NC化をするには投資が大きくなるので、第一線から身を引いて金型を修理する仕事をされています。その人も当社が修理の仕事ができるのはわかっているのですが、今までは高いからなかなか仕事を出さなかったのです。でも今回は大きい物を扱える会社を探していました。

こちらも仕事がないもので、とにかく売り上げを作らなければいけない。赤字になってもゆくゆく黒にもっていくことが可能だと思っていましたので、お互いに七転八倒するだろうと思いながらも、やってみようということになりました。成形メーカの方とはちょうど世代も一緒でしたしうまくマッチングし、このおかげで穴を埋めることができたのです。

渡辺 依頼するところが少しやり方を変えようかというところから今回の話があったのですね。水野社長には、いろいろな人脈、仲間がいらっしゃるということなのでしょうね。

水野 仲間はたくさんいます。だから恵まれているのかもしれないですね。仲間というか周りに。

本当に安く作るのだったら中国に出すのが一番。ただ修理代に費用が重みますし、自分達が作っていない金型ですから、ばらすだけでもすごく大変です。中国で作った金型は板が出てきたり、いろいろ細工をしてあるので、入れ子を1個はずすときでも、裏っかわに板がついてないな、よし抜こうというように、時間が倍かかります。データをもらっても、今までもデータどおりではないこともありました。たとえば0.1mmでも設計ミスで寸法が出ていないと、樹脂を流すとそこがバリになりますから、入れ子の下に0.1mmの板を入れるのです。このような金型はたくさん入れ子が入っていますので、細工をしていればしているほど、何も考えずに抜いてしまうと、板がばらばら出てきて、組めなくなってしまいます。普通は厚めに作って削って合わせるのですが、小さめに作って上げ底をしてあります。本当に神経を使います。

渡辺 今後もこういう仕事も続けていかれるのでしょうか。

水野 自動車は完全に1回止まっていますから、自動車だけではやっていけないですね。今、自動車だけでやってきたところが困っているのがわかっていますから、多少無理をしてでも新しいことをやっていかないとと考えていますし、こういう本当に苦しいときに助けてもらっている仕事ですから、恩を仇で返すというようなことはできません。

会社の規模

渡辺 現地に出て行かれているところもあると思いますが、今後はどのようなことをお考えですか。

水野 当社はこれ以上大きくなりたくないですね。従業員は30人まで、敷地もこの中に入るまで。それ以上は固定費のキープができませんから、絶対に無理です。みんな一緒で見ていられるというのはこの人数までです。50人になるとたぶん係長や課長が必要になり、トップダウンの形の組織になると思います。30人であれば一列に並んでいられますから、そこが一番いいところです。ですから、規模を拡大しようと考えたことは一度もなかったですね。

渡辺 水野社長がおっしゃるように、100人いて、いくつかグループがあって、それを制御するというのが難しい、直接見るという世界じゃないと成り立たない業界かもしれませんね。

水野 メーカーさんが出て行っていて、近くで現地対応できるように現地に工場を作っているところもありますが、当社は人が行くので、設備を借りるというスタンスです。現地で修理しないといけないものは、人を出してそこで修理して帰ってくる。設備は手配していただけるので、中国もそのパターンです。それが一番安く早く直ると思います。

現地に工場を持ったりすると、今回のようにぽんと穴があいたときに、大変なことになります。当社はこれ以上大きくならないし、繁殖もしない、というのが絶対条件です。

いずれ車がまた売れ始めてくると、今度は国内で作れなくなる可能性があります。そこをすごく懸念しています。金型屋でもそうです。どこか一社なくなれば、その先がきついのが見えているので、何とかお互い回せる仕事があれば回して、相談に乗ってもらったりとかしてもらわないと、パンクしてしまいます。

画面例

今あわててみんなをNDESの講習に出しています。今後図面がなくなり3Dのデータになる。3Dのデータを見られないと金型が作れなくなる。それでいいのかということです。だから講習会に参加して勉強してこいと行かせています。やるかやらないかは自分で決めればいいのです。講習会に行ってきた中で2人くらいは食いついてきたので、一台増設を考えているところです。

NDESに期待するところ

渡辺 お客様にご提供するシステムは、要望をいかにキャッチアップするかだと思います。

水野 今回もう一台増やす計画もありますし、保守を台数セットで割引きにしてほしいですね。

もうひとつ、Windows版ではなくってLinux版を出しましょう。やれると面白いと思うよ。今、みんなが使えるWindowsでなくって、CAD/CAMをやる人はLinuxでやるといいと思います。というのも一つの売り方ではないでしょうか。みんなが使えるWindowsだからみんなが使って壊れていってしまうというところがあると思いますよ。OSは壊れにくいのを使ったほうがいいと思っています。

最速で最強のロジックだと感じているコマンドPCS1の復活も望んでいます。

渡辺 お客様の求めるものをどう提供するか、それが基本で、そのことに最大限努力をする。市場を見て、お客様を見て、当社がどう変えていくかが基本だと思います。

お客様が期待するCAD/CAMはどういうものなのか、何を提供するかをきちんとしようとしています。期待していただきたいと考えております。

水野 期待していますよ。

渡辺 本日は、お忙しいところを本当にありがとうございました。

会社プロフィール

ティエムモールド株式会社
会社の写真

ティエムモールド株式会社

URL http://www.ma.ccnw.ne.jp/tm-mold/top.htm
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創業 昭和49年8月
所在地 〒480-0303 愛知県春日井市明知町1423-77
業務内容 プラスチック金型設計/製造
受注品目 2色レンズ、インナーレンズ、リフレクタ、エクステンション、ウィンカーレンズ、ボディ、ブラケットなど