人とシステム

季刊誌
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No.22 | トピックス
遊びの効用(2)「垂直思考と水平思考」
東北大学名誉教授
工学博士 酒井 高男

「遊びの効用」をテーマに4回シリーズで酒井先生に執筆いただきます。今回はその2回目です。


ほんのちょっとしたきっかけで始めた手作り玩具であるが、やってみるとなかなか面白い。まず何を作りたいのかの目標がある。次にはどうしたらそれに到達できるのか手だてを考えねばならない。

大分昔の話だが、このような経験を種にして、「着想と展開」という演題で何回か講演をしたことがある。あるときそのような講演の後で、「先生の話はスイヘイシコウの主張と同じだ」といわれた。私には何のことかわからなかった。

そこで書店にいってそれらしい書物を探すことにした。あった。それは「水平思考」というのであった。手ごろな文庫本として、エドワード・デボノの「水平思考の世界」という書物を求めた。

挿絵

読んでみると、本当に私の言いたいことがいっぱい書いてあった。水平に対する言葉として先づ垂直の方を取り上げよう。一つの穴をただ深く深く垂直に掘っていくのでは、違った場所に穴を掘ってみる余裕は出てこない。論理は、深く大きく掘って、確実な穴をつくるための一つの道具である。しかしその掘る場所が間違っていたならば、いくらその論理で穴の掘り方を工夫しても、また深さを増し加えたとしても、よい結果はえられない。途中で変だと気づいても、いったん手をつけた穴をやめて、別な場所に穴堀りを始める勇気も出ない。それに他の場所に手をつけてみても、それが成功するとの保証はない。そこでつい同じ穴を掘りつづけることになる。

無難なのは、先人が手をつけて、ある程度は掘り進められた穴をさらに深くしていくことだ。特に偉い先生が手をつけて、ある程度までは成功した例を示された場合などはなおさらである。先生のやり残したところを拡げ、また補強材などで補強する。

こうして自分の手が加わると、一層愛着も出てくる。それに他のことに気を回して惑うよりも、一つのことに専心していた方が、はるかに気分的にも楽である。そうこうしているうちに年もとる。そしてやがて専門家といわれるようになる。そうなると自分の専門について不平不満も言いにくくなる。それに自分が掘り進めた深い穴の底に座っていると、外部を吹き荒れる冷たい風に当らない。うるさい情報も耳に入らないし、余計なことも目に入らない。精神衛生上まことに結構なことだというわけである。

ところが、そのような姿勢からは画期的な新しい仕事の生まれる可能性は全くない、とデボノはいう。ではどうするか。そこで現れるのが水平思考である。

水平思考の特徴は、論理や数理などコンピュータが最も得意とする思考方法を全く捨てて、未整理のまま、しかも生のまま、対面する問題に体当たりする点にある。私たちの先祖が、近代文明を迎える前の何万年かの間、蓄積して来た生物学的情報処理の本能に立ち返ることである。手段の多様性を認めることである。他者の評価に支配されることなく、自分の頭の中から、新しい価値を生み出すことである。

この件について、上述したデボノの書物の初めの方に、水平思考の説明のためか、面白い挿話が記されている。この思考方法の理解に役立つと思うので紹介する。

昔一人の商人が、ある金貸しから多額の借金をして返却できないで困っていた。彼は若干の猶予を願うべくティーンエイジャの娘をつれて金貸しの屋敷を訪れた。このとき金貸しは新しい提案をした。「娘さんを私にくれ給え。そうすれば借金は帳消しにしてやる」と。この急な提案に返事もできずに困っていると、金貸しはつづけて次のようにいった。「私はそれほど強欲なぢいさんではない。あなたたちにもチャンスを与えよう。私の空財布に白黒一つづつの小石を入れるから、娘さん、財布の中から一つだけ石を取り出しなさい。それが白ならば、借金は帳消しにし、娘さんも来ることはない。もし黒ならば、返金か娘さんかのどちらかだ。どうだ、この五分五分の確率にかけてみないかね」というのである。困り果てた商人はこの提案を受け入れた。

挿絵

金貸しは早速庭の小道から小石を拾い財布の中に納め、「さあ、一つだけ小石をつまみ出しなさい」といって娘の前にその財布をつき出した。娘は思わずぞっとした。金貸しが財布に入れた石が、二つとも黒だったことを見てしまったからである。

著者のデボノはここで私たち読者に、「あなたがこの不運な娘だったらどうしますか。あるいは、この不運な娘に助言できるとすれば、どう言いますか」と問いかけている。

私は書物を閉じて考えることにした。このような窮地は形こそ異なれ、私たちも遭遇しないわけではない。追い込まれた状況の中で、自分の持っている最高の知恵を出さねばならない。この娘の場合には即座に答えを出さねばならない。いま私たちには時間がある。ゆっくりと考えてみることにしましょう。

しばらく考えた後得た私の解決策は次のようなものである。娘は次のように答えるのである。「おじさん、私はとるに足りない小娘です。おじさんの財布に手を入れるなど滅相もありません。私たちの運命はすべておじさんの手の中にあります。おまかせします。おじさんどうぞ石を取り出して下さい」と、ていねいに頭を下げるのだ。

なかなかの名案だと考え、自信をもって書物を開いた。結果はちがっていた。

娘は財布に手を入れ、石を取り出すのである。そして出した途端に落としてしまう。小石の敷きつめられた小道ではどこへいったかわからない。娘は自分の不調法をわびながら言う。「申訳ありません。どうしましょう。あっ、そうだ。残った石を見れば、今落とした石の色がわかります」と。咄嗟にこの判断を導き出したこの娘の知恵に驚嘆する他はない。

窮地に立たされたこの娘の頭の中で、激しく動き回って突破口を探していた思考方法が「水平思考」の例なのだと、デボノはいいたいのだと理解した。

彼女はどこでこの素晴らしい能力を得たのであろうか。彼女はまだティーンエイジャだというし、父親は貧乏な商人だという。この娘が特別な教育を受けたとは考えられない。むしろ伝統的な教育からはこのような知恵は生れまい。定められた期間内に、必要な学力を与えるためには、どうしても効率と確実さが求められるからである。その結果、水平思考の育成どころか、かえって試験また試験という形で、軌道からの逸脱を極力おさえることになりがちである。

こうして学校教育の主流は垂直思考的なものにならざるをえない。しかし実人生を生きる上において、水平思考的発想が求められる場合も多い。子供らの自由遊びの中に、その習得を期待したい。